彼の記憶 ―コール・リコール・ミー―
打ちつける雨音が少し弱くなっていた。
明日は晴れるだろうか、と星一つ見えない夜空を窓越しに見上げる。すると、そこに映り込んだ顔が目に入った。頬をつまんでみると、その顔も同じように頬をつまんでいる。
当たり前か、とそこから目を背けるようにベッドに身を沈めた。
脇に置いていた手帳に再び手を伸ばす。それは昨日、部屋に置いてあった鞄の一つから見つけたものだった。 記憶を取り戻すきっかけになるのではないかと、今日会ったら彼に伝えるつもりだったのに、結局言い出すことができなかった。
ぱらぱらとめくり、溜息をつく。
そこかしこに書きこまれた予定のメモを見ていて、気付いてしまったのだ。昨日も一昨日も、彼が連れていってくれた場所は、全て、彼と彼女で行ったそれなのだと。
――あほみたい。
ここ数日感じていたふわふわとした浮き立つような気持ちがしぼんでいく。
自分でもおかしな話だと思う。でも、この手帳を見ていて感じるこれは誤魔化しようもなく、嫉妬だった。
「おさななじみ、か……」
父親だと名乗る男の人に連れられて初めて彼の病室を訪れた一週間前、自己紹介として彼が語った肩書きだ。見せてもらった彼の、そして自分のアルバムにも、確かに幼い頃から隣に並ぶ二人の写真がたくさん収められていた。
整った顔立ちの人だな。感じたのはそれくらいで、何も思い出すことはできなくて。
それを伝えた時の彼の表情が脳裏に浮かんで、きゅっと胸が痛くなる。
ほんまに、オレのこと憶えてないんか。
そんな悲痛な声に頷くことしかできないのがとても辛かった。何を言ったらいいのか分からなくて、何を言っても彼の顔を曇らせてしまいそうで、何も言えなくなった。
どないしたん、と聞かれて正直にそう答えると、「そこの椅子に座ってくれ」と右手を掴み、
何も言わんでええから、そこにおってくれ――
真剣な顔で、彼はそう言ったのだった。
――幼馴染に、あんな顔であんなこと、言うもんなのかな?
あの時だけじゃない。彼に会うたびに、ふとした瞬間の、彼が自分を見つめる瞳に気付いていた。おそらく、彼は好きなのだろう。
「あたしやなくて、アンタやけどな」
窓に映る自分に向かってそう語りかける。彼が好きなのは、幼い頃からともに過ごし、彼のことを深く理解している彼女だ。
姿形は同じでも、記憶を失った自分は、彼女であって彼女でない。
「名前すらうまく呼ばれへんもんね……」
へいじ。
ヘイジ。
平次――
明日は、意識して呼んでみよう。髪も結んで行こう。写真の中の彼女みたいに。
彼が、あたしを彼女だと錯覚してくれるように。
たとえ記憶が戻らないとしても、このあたしと一から始めればいいんじゃないかと思ってくれるように。
*
目の前に、彼がいた。
眠っているのだろうか。横たわり、身動き一つしない。
――平次?
昨日練習したおかげか、自然に呼ぶことができた。それが嬉しくて、少しだけ大胆になる。
身をかがめ、彼の肩に触れてみる。「なぁ、平次――」
ぬるりとした感触。
目も覚めるような紅。
何度名前を呼んでも、彼からの答えはない。
**
「……大丈夫か? ちょっと顔色悪いで」
クローゼットにあった制服のポケットから見つけた色つきのリップと、机の引き出しに仕舞われていたチークで誤魔化したつもりだったのに、無駄な努力だったらしい。 顔を合わせるなり彼の表情が曇る。
夜ごと見るあの夢のことを、彼には伝えていなかった。あれはただの夢ではなく、現実の出来事だったのではないか――そう気付いていながら、どうしても、彼に言うことができない。
自分に記憶が戻りつつあるかもしれないことを彼が知ったらどうするだろう。ほっとするだろうか。喜ぶだろうか。
「平気やで。それより、今日はどこ連れて行ってくれるん?」
返事はないままに、彼が踵を返す。その後ろ姿を追いかけようと踏み出した途端、足元がふらついて「危ない」と思うより先に抱き止められていた。
すぐ目の前に彼の肩がある。
「置いてったりせえへんからゆっくりついて来いや?」
こちらのことなど見ていなかったはずなのに、どうしてこんなことが易々と出来てしまうのだろう。その上、そんな表情でそんなことを言われたら。
頬が熱くなるのを感じ、頷くのを装って顔をうつむかせる。「ありがと、平次……」
あ、名前――
意識せずに口にできたことが嬉しくて、それを伝えようと顔を上げたはずなのに、すぐ横に彼の襟足があった。
耳元で名前を呼ばれてはじめて、抱き締められていることに気がつく。
「……平次?」
どうしたん、と続けたかったのだけれど、背中にまわされた彼の手に更に力がこもるのを感じて何も言えなくなった。
胸が脈打つのが分かる。緊張して、ドキドキして。でも、それ以上に心地好かった。
あたし、このぬくもり知ってる――
ずきりと、痛みが走る。
それが頭なのか心なのか、よく分からなかった。