彼の記憶 ―コール・リコール・ミー―
雲の切れ間からのぞく太陽の日射しが、落ち葉についた雨露に反射してきらめいた。
辺りに人の姿はなく、砂場にはどこかの子供が忘れていったらしいおもちゃのシャベルだけが取り残されている。
「この公園……」
「何か思い出したんか」
和葉が首を横に振る。「でも……アルバムにあったやろ? ここで遊んでる二人の写真」
そう言ってシャベルを手に取り、しゃくしゃくと砂をすくう。昨日の雨で湿った砂は少し鈍い音を立てながら滑り落ちていった。和葉に倣って腰を屈め、シャベルへと視線を落とすその顔を窺う。
――やっぱ、顔色ようないな。
本人は普通を装っているが、気のせいではなかったと改めて確認する。唇の赤さに比べて頬が青白く、目の下にもうっすらとクマができているようだ。
このまま帰すべきだろうかと迷う。自分の家で休ませようとも考えたのだが、今日は静華が不在だ。今の和葉と家に二人きりでいるのはまずい気がした。
「あんな、平次……」
いつのまにか手をとめた和葉が、こちらを見ていた。
その「平次」は、以前の和葉と全く変わらないものだった。昨日はあんなにも呼び辛そうにしていたのに、昨日の今日で一体どうしたのだろう。
「あたし……やっぱり、このままやったらあかん?」
その言葉の意味がわからなくて、和葉の目を見返す。するとそこから逃れるように目を伏せる。「……あたし、思い出さなくてもええと思ってる」
和葉の手からすり抜けたシャベルが、ぽとりと砂の上に落ちた。
「……記憶のことか? それなら、医者からも無理に思い出さんでええ言われてるやろ?」
「でも、平次は思い出して欲しいんやろ」
言葉が出てこなかった。
初めからそれが分かっていたかのように、返事を待つ様子もなく和葉が腰を上げる。
スカートの端についた砂をはたいて落としたかと思うと、今度はジャングルジムへと近づき、何も言わずに登り始める。 必死になって登った子供の頃と違って、あっという間に頂に手をかけた和葉は、「はやく! 平次も」とこちらを見下ろした。
痛む右肩を使う必要もなく、左腕だけで容易く和葉の横まで辿り着く。 何か言わなければ、と思っているのに、相変わらず言葉が出てこない。
それを察してか、ううん、と自分を納得させるように首を振った和葉は、徐にこちらへ顔を向ける。
「あたしや、ないもんね」
そう言った声は、確かに、耳に馴染んだあの声だった。
笑っているように見せるためか、左右の口角は上がっている。
だが、唇の端がかすかに震えていた。
涙を堪えているのだ。そして、堪え切れずに泣き出す直前の兆候であることも分かっている。
「あたしやけど、でも、あたしとちゃうもんね」
大きな瞳がみるみるうちに潤んできて、溢れた一粒が眦から流れ落ちていく。
果たして泣き出した和葉を見て、やはり和葉は和葉なのだと心のどこかで安堵していた。
頬を濡らすそれを拭おうともせず、和葉は真っ直ぐにこちらを見上げてくる。
「平次……」
そう呼ぶのも、あんな風に抱き締められるのも、あたしやない―― そう言って泣く和葉にかける言葉が見つからなくて、震える肩を引き寄せた。「……あたしな、こわいんよ」
「もし記憶が戻ったら、あたしはどうなるんやろって」
「……和葉は、和葉のままやろ?」
「今感じてるあたしの気持ちは、消えたりせえへん? こうして平次と話したことも、なかったことになったりせえへん?」
溢れ出る不安につられるように、次々と涙が零れていく。あほやなぁ、と安心させるように頭を撫でて笑いかけた。
「そんなわけないやろ。記憶が戻ったからって、この二週間のこと忘れたりせえへん」
「……そんなんわからへんやん。忘れてまうかもしれへん」
「ほんなら、オレが憶えとく」
たとえお前が忘れても、オレがずっと憶えとくから大丈夫や。
またひとつ零れおちそうになっている一粒を拭ってやり、「ええ加減、泣きやめ。な?」
そう言って涙の跡が残る頬に触れる。
ゆっくりと頷き、それから少し恥ずかしそうに和葉は顔を伏せた。
「平次って、いつもこんな風にあたしのこと慰めてるん?」
は? と聴き返すと、「だって……慣れてるやん」
照れ隠しなのか、なぜかその声は不服気だ。ふっと笑いが漏れて、からかいたい気持ちが湧いてくる。
「そらまぁ和葉ちゃんはよおビービー泣くからなぁ。その気がなくても慣れてまうわな」
「も、もぉ……っ」
頬を赤くした和葉が、こちらに身を乗り出すふりをする。
無意識に右肩を庇って身体を反らしてしまったらしく、あ、やばい――そう思ったときにはバランスを崩していた。
「あぶない……!」
和葉の声がして、傾いた身体が引き戻される。しかし、その反動で今度は和葉が空中に投げ出された。 間一髪でその手首を掴んだものの、右肩に激痛が走る。思わず歪めた目に、驚いたような和葉の顔が映った。
呆然と、自分の手首を掴む手を見つめている。
それから、ゆっくりとこちらに目を向けた。
「平次……」
「和葉……大丈夫か?」
足場にしっかりと足をかけ、頷くのを待って手を離す。無事に下まで降りるや否や、和葉が膝から崩れ落ちた。
地面についた手が震えている。その甲に、ぽとりと雫が落ちた。
「どないしてん。何でまた泣くねん? どっか怪我したか」
しゃがみ込むと、消え入るような和葉の声が耳に入る。
殺してしもた……
間違いなく、そう聞こえた。和葉、と何度呼びかけても顔を上げない。
無理やり引っ張り上げてこちらを向かせたその頬は、血の気が失せたように真っ白だった。
ひんやりとしたそこへ掌を当てて、もう一度名前を呼ぶ。
ようやく目を合わせた和葉は、泣き声すら立てずに涙を溢れさせていた。
「へいじぃ……」
アタシ、人殺してしもた――
「和葉……お前、記憶が戻ったんか。殺したって誰をや」
時折嗚咽を漏らしながら和葉が語った内容は、二週間前のあの日、あの男に睡眠薬入りの酒を飲まされて意識を失ってしまった平次の記憶を補うものだった。
平次が意識を失った後、男は和葉の手錠を外し、腕のみ自由に動かせる状態にした上で拳銃を渡してきたのだと言う。そして、男を撃つよう和葉に命じた。
こいつ、自分を助けるためにアンタが人殺したって知ったらどう思うやろなぁ。
おかしくてたまらない、といった様子で笑っていたらしい。当然のことながら撃てずにいる和葉の前で、平次の右肩、脇腹と、和葉を追いつめるようにじわじわと撃った。
次は頭を撃つ。そう言われて和葉はついに――
「撃って殺した、ちゅうんか? あの犯人を」
「……うん」
何もかも思い出していた。
握らされた拳銃の重み。
耳をつんざくような銃声。
胸から血を流して倒れていくあの人。
肩と脇腹から大量に出血し、身動き一つしない平次の姿――
「お前がそんなことできるわけないやろ? あの人は自殺やで」
「うそや! だって銃声がした途端あの人倒れて……」
「確かにな。現場に駆け付けた警察も、死んでるあの人と、拳銃を手にして気ぃ失ってる和葉見つけて、お前をまず疑ったらしいで」
やっぱり、アタシが……
そう顔を青ざめる和葉に、ちゃうちゃう、と手を振って見せる。
「お前からは硝煙反応が出んかったんや」
「え……どういうことなん」
「あの人、お前が自分のこと撃たへん可能性も考えて、あの部屋に拳銃仕掛けとったんや。スイッチ一つで発砲するよう小細工してな」
和葉が撃った場合と弾丸の軌道がほとんど同じになるよう、その拳銃とあの男を結ぶ直線上の少し横に和葉を座らせていた。 あの男としては、完璧に警察を欺けるとは思っていなかっただろう。ほんの一時でも、自分のために和葉に人を殺させてしまったと、「やむを得ない殺人」というものを平次に認めさせるのが目的だったのかもしれない。
「そうやったんや……」
今度は声を漏らして和葉が泣き出す。「よかった……平次が無事で……」
目の前で平次が撃たれ、更に平次の命と引き換えに人を殺すことを強要され、和葉の心にどれほどの負担があっただろうか。 しかも、それだけの苦しみを和葉が受けている間、自分は何もできなかった。
今回のような恨みをもたれる危険は、自分が真実を暴くことをやめない限り、この先ずっと付いて回る。そこから和葉を守るには、まだまだ自分は力不足だ。そんな現実を改めて突き付けられた。
うずくまる和葉を立たせ、足についた土を落としてやる。「お前、今日泣きすぎやで」
涙でぐしゃぐしゃになった左右の頬を手の甲でぐいぐいと拭うと、んん、と和葉が嫌がるような声を出した。
「……何で、アタシにはそんな乱暴なんよ」
「はぁ?」
さっきは優しくしてくれたくせに。
まぶたを紅く腫らせながらも、つんとした表情でそんなことを言う。
「そないぶっさいくな顔する女にはこれで十分やろ。さっきまではしおらしいてちょっとは可愛げもあったのになぁ?」
「な、何やてぇ!?」
「あたしのことわすれんといてぇ、て目ぇうるうるさせて言っとったくせに」
「そんなこと言うてへんやろ! アタシ自身が忘れてまうかも、て言うたんやん!」
言った分だけぽんぽん返ってくるこの感覚。たった二週間なのに、なぜだかひどく懐かしさを感じる。 和葉も同じ気持ちだったのか、やりとりとは裏腹に、表情はとても穏やかだった。自分もこんな顔をしているのかと思うと、少し照れ臭さが先に立つ。
「……せやけど、お前何で急に思い出したんや?」
何気なく口にした疑問に、和葉の動きが止まる。
そして、そっと右手を握ったかと思うと、「……ひみつ」とはにかむように笑った。