「あたしや、ないもんね」

そう言った声は、確かに、耳に馴染んだあの声だった。
笑っているように見せるためか、左右の口角は上がっている。
だが、唇の端がかすかに震えていた。
涙を堪えているのだ。そして、堪え切れずに泣き出す直前の兆候であることも分かっている。

「あたしやけど、でも、あたしとちゃうもんね」

大きな瞳がみるみるうちに潤んできて、溢れた一粒が眦から流れ落ちていく。
果たして泣き出した彼女を見て、やはり彼女は彼女なのだと心のどこかで安堵していた。
頬を濡らすそれを拭おうともせず、目の前の女は真っ直ぐにこちらを見上げてくる。

何も、言葉が出てこなかった。

彼の記憶 ―コール・リコール・ミー―


しとしとと降り続く雨が、木の幹を濡らしていた。色を変えて落ち積もった葉を踏みしめて歩きながら、失敗したな、と心の中で舌打ちする。
何気なさを装って隣の女を見やると、顔の下半分をマフラーに埋めた彼女は、ぼんやりとどこかを眺めていた。 その紅いチェックのマフラーは、いつも彼女が身につけているものだ。にも関わらず違和感は消えない。

「髪、なんもせえへん方が好きなんか?」

マフラーに収まりきっていない髪を一束掴んでみせると、驚いたように彼女が身を引く。
その反応に慌てて手を離した。失敗した、とまた心の中でつぶやく。

「何となく、下ろしとった方があったかいから……」

そう言って、傘の柄を握り直すのが見えた。「そういえば、服部君に見せてもろたアルバムは、髪結んでるのばっかりやったね」
少し哀しそうな瞳をしつつも笑ってみせたのも束の間、あっ、と彼女は口を覆った。

「ご、ごめん……服部君やなくて……」

へいじ、と、几帳面に言い直す。そのあまりのぎこちなさに思わず笑ってしまった。
その声は確かに彼女のものだ。そして、「へいじ」という同じワード。
それなのに、こんなにも違いが出るものだろうか。

「別に、無理せんでええで。和葉に服部君なんて呼ばれると何やこそばいけどな」

冗談めかしてにっと笑ってみせると、わずかに強張っていた彼女の頬が弛んだ。

不意に、自分の名前を呼ぶ彼女の声が耳によみがえる。
もう一度あの声が聴きたいと、無性に思った。

*

和葉が記憶を失って、二週間が経っていた。
平次のことはもちろん、家族も、そして自分のことさえも分からないでいる。
今のところ直接的な原因は分かっていないが、精神的なショックに起因しているとの医師の見立てから、無理に思い出させるのはよくないと言われていた。

――オレのせいや。

右肩と脇腹が痛んだ。まだ服の下で包帯を巻いている銃創は、まさに和葉が記憶を失った二週間前に負ったものだ。
医師が言う「精神的なショック」も、おそらくはこの傷に起因している。
平次自身にも、この傷についてはっきりとした記憶があるわけではない。
憶えているのは二週間前のあの日、和葉とともに囚われ、自分への恨みごとを言い連ねる男に拳銃を突きつけられたこと。 以前平次が解いた事件の犯人がその男の息子で、一ヶ月前に獄中自殺を図ったらしい。確かに自分の息子は罪を犯したが、でもそれはそうせざるを得なかったからだ、そんな状況に追い込まれこともないくせに一面的な倫理観で息子を追いつめたお前が許せない――そう言って、真っ直ぐに銃口を向けた。
そこでプツリと記憶が途絶えている。睡眠薬を溶かした酒を飲まされ、意識を失ってしまったためだ。

そして次に意識を取り戻した時には病室にいた。肩と脇腹にはこの銃創があり、あの男は死んだことを聞かされた。

「……大丈夫? 怪我、痛いんとちゃう?」

無意識に脇腹をさすっていたらしい。和葉が心配気な様子でこちらを見ていた。

「服部君、大怪我してるんやろ? なのに、あたしと毎日出歩いてて大丈夫なん?」

大怪我、というのが具体的にどういうもので、また、どういう経緯でそのような怪我をしたのかは、今の和葉は知らない。 まして、その現場に自分がいたなどとは露ほどにも思っていないだろう。
あの時、平次が意識を失っている間に何が起きたのか。
それを思い出すことは、つまり、自分の心が壊れないように脳裏から消し去ってしまうほどの記憶を甦らすことになってしまう。
だから、この傷の件については殊の外、今の和葉には知られないよう気をつけていた。
だが一方で、正反対のことを思うもう一人の自分の声にも気付いていた。

全部、話してしまえ。
そして思い出すように促すのだ。何もかも、全て。

「大丈夫や。雨の日は古傷が痛む、言うやろ? 傷自体は大したことあらへん」

自分勝手な本音は心の片隅に追いやってから、和葉の方を振り返る。

「雨もひどなってきたし、そろそろ帰ろか」

二週間前のことには触れることなく記憶を取り戻せないかと、ここ数日、これまで二人で出掛けた場所に和葉を連れ出してみてはいるが、ここも空振りだったらしい。
仕方ないか、とも思う。これまで二人がここへ来るのは満開の桜が目当てで、こんな時季に来たことはなかった。

もしもこのまま和葉の記憶が戻らなかったら――

考えまいとしていたその思考が、日に日に頭の中を占拠しつつある。
自分たちが当たり前のように過ごしていたあの日常は、もう二度と、かえってはこないのだろうか。 幼馴染という、積み重ねた時間と記憶で築かれたこの関係は、なかったものとして和葉に接しなければならないのだろうか。

「なぁ、和葉……」

激しさを増す雨音に掻き消され、その声は彼女には届かない。