あれは、いつのことだったのだろう。
手にしたグラスを一口呷ると、中の氷が小気味いい音をたてた。
喉を濡らしていくウイスキーを味わいながら、薄くぼやけた記憶を辿る。
握ったてのひらはとても小さくて、手を繋ぐというよりも、その大切な大切な小さな手が擦り抜けてしまわないように。離れていってしまわないようにと、必要以上に何度も握り返した。
その度にこちらを見上げてくる瞳に笑いかけてやると、なだらかな頬がふにゃりと弛む。
けれど、自分の頬はそれ以上に弛んでいたはずだ。
こうして思い出しているだけでも、いつのまにか締りのない顔になっていたのに気付いて、それを隠すようにまたグラスを傾ける。
時折吹く風は涼しいというより冷たい、という方が相応しかったが、酔いがまわって、少し火照った体にはそれがとても心地よかった。
ゆっくりと瞳を閉じて、もう一度、あの頃へと想いを馳せる。
月にさかずき
「……お父ちゃん?」
後ろの襖が開いて、ぬるい空気が項に触れた。
何となく返事をしないでいると、背中にその気配が近づいてくる。
「何してんのん? こんなとこ、寒いやろ」
「酔い覚ましには丁度ええんや」
「酔い覚まして……」
ほんなら何で今も飲んでるん。
きっと、そう言いたかったのだろう。けれどそのまま、娘は口を噤んだ。
酔い覚ましがただの口実にすぎないことを、彼女は察したのだ。大人になったんだな、と思う。
もう、彼女のてのひらはあの頃のように小さくはない。
「何か用やったんか」
「え……あ、うん。平次、もう帰んねんけど……」
「そうか。気ぃつけるようにな」
顔を見せてやって欲しい、という娘の気持ちは分かっていたが、気付かないふりをする。
そんな沈黙がしばし続いたあとで、小さな溜息とともにそっと襖は閉められた。
遠くで、娘と彼が話している声がして、「ほんなら失礼します」という少し控えめな挨拶が、襖越しに届けられる。見えるはずもないのに小さく頷いて、グラスの水滴を拭った。
無二の親友の息子である彼のことが嫌いなわけではない。
むしろ幼い頃からその成長を見てきた身として、ある種家族のような情も感じているし、認めてもいる。心に芯をもった、好ましい男だとも思う。
真っ直ぐすぎるがゆえに、荒っぽさや危うさを感じることもないわけではなかったが、久しぶりに対面した彼は以前と比べてそういった青さが消え、まさに信頼に足る青年になっていた。
「この男なら……」というのは常々もっていた想いだったし、立派に成長した彼を見て、それは改めて確かなものになった。
だが。
だからこそ、なるべくなら彼の顔を見ずにおきたい時もあるのだ。
特に、こんな夜には。
「とうとう現実になってしもたな」
誰に聴かせるでもなく、ひとりごちる。
グラスについた雫がひとつ滑り落ちて、寝衣に染みをつくった。
「……お父ちゃん」
玄関先まで彼を見送ったらしい娘が、グラス片手に隣に腰を下ろす。
どうした、という意味を込めて横顔を見やると、視線に気付いた彼女が少し眉を下げた。
ちょっと、困ったような顔。
実際、複雑なのだろう。
不貞腐れた父親に、どう声をかけたらいいのか分からないのだ。
「なぁ和葉。覚えてるか」
和葉の手が今よりずっとずっと小さかった頃。
お前がおよめさんになりたい言うとったんはワシやったんやで―――
「なに? お父ちゃん」
肌寒かったのだろう。
膝を抱え込んだ拍子に薬指の指輪が、部屋から漏れる明かりを反射して瞬いた。
キレイだな、と感じるのと同時に、
その指に昔、白詰草の指輪をはめてやったこと。
そしていつのまにか、白詰草がリボンに変わっていたことを思い出して、苦く笑う。
いつかこんな日が来ることを覚悟したのは、あの日が最初だったかもしれない。
「キレイやね」
ひどく嬉しそうな声だった。
指輪を見ていたことに気付かれたのかと思ったが、そうではなかった。
ほら、と娘が指さした先は、上。
先ほどまで星ひとつ見えなかった群青色の夜空を、いつのまにやら姿を現した白銀の月が見事に丸く縁どっている。
「ホンマやな」
笑みが漏れた。
返ってきた娘の笑顔は、あの頃よりずっと大人びてキレイで。
それでいて、やはりどこか変わらない。
「―――あ」
馴染みあるメロディーが襖の奥から流れ出して、二人の声が揃った。
「平次君やろ。はよ出てやり」
「……うん」
少し照れが滲んだ声色。
着信音だけで相手が分かってしまったことが、恥ずかしいのかもしれない。
つい、苦笑が零れた。
あのメロディーの時だけ一変する様子を毎度見ていれば、その気がなくても分かってしまうものだ。
娘が襖の奥へと姿を消すと、静寂を取り戻した辺りには秋虫の囁きだけが満ちる。
キレイな満月に、美味い酒。そして、きっと幸せに違いない娘の未来。
―――ええ夜やな。
極上の秋の夜長を祝って。
しんしんと照らす美月にそっとグラスを掲げ、最後の一口に酔いしれた。
シロツメクサがリボンに変わったエピソード『つぐない(ちび平和)』